amafukuのブログ

雑多な記事を書いています。

妻の生い立ち(小学4年生〜施設に入るまで)

 

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今回も前回の続きから書いていきたいと思います。

実父の実家で生活が始まる

 

小学校4年生の夏休みから実父の実家での生活が始まりました。

1階に足が悪い祖母祖父、2階の一部屋に私と実父(後に姉合流)

もう一部屋に叔母(父の妹)と3個上と1個上の男のいとこと住んでいました。

 

夏休みから冬までは姉が大人の事情で里親のところから来れなかったので

実際数ヶ月は姉がいませんでした。

 

姉が帰ってくる

 

同じ年の冬にやっと姉が実父の実家に帰ってきました。

久しぶりに姉と暮らせるということで本当に嬉しかったのを覚えています。

 

姉とは保護所に入るまでに何回も喧嘩したし、もちろんほとんどが殴り合いの喧嘩で、

あざとか作っていました笑

 

1回、殴り合いの喧嘩中に姉の膝が私の右目の真下の骨に命中して

病院に行ったという伝説もあります笑

(ちなみに目が尋常じゃ無いくらい腫れただけで済みました!)

 

私も同じ頃に姉の腕の服を噛んで威嚇をしようと思ったら、

肉も一緒に噛んでしまったみたいで、今でも跡が残ってしまった、

という話もあります笑

 

殴り合いの喧嘩は小さい頃にしかできないことだと思うので、

ちゃんと喧嘩できてよかったなと思います笑

 

いとこ、叔母からの虐待が始まる

 

実家に引っ越してきて半年もしないうちに徐々に始まりました。

 

最初はゲームをして負けたら全力でデコピンやビンタをされるくらいでしたが、

だんだん理不尽なことで怒鳴られたり、殴られたりされました。

 

私たち姉妹は女の子だから余計に祖母祖父に甘やかされていたので

いとこたちは気に食わなかったんだと思います。

 

1個上のいとこには家にあったチェンソーを向けられたり、

ひたすら暴言を吐かれたりしました。

 

ただ、私も反抗期?っぽかったのでそれなりに反撃はしましたが、

向こうは年上の男の子だったので勝つことはできませんでした。

 

今もしいとこと喧嘩したら口では余裕で勝つことができそうです笑

頭の良さは負けません!笑笑

 

叔母は祖母祖父が後から来た私たちの方を可愛がるのが気に食わなかったんだと思います。

 

ふざけた感じで暴言を吐いてきたり、父が仕事の時に普通に手を上げてきました。

今でも治っていませんが、お酒が入ると暴れます。暴言が本当に止まりません。

 

料理を作ってくれたり、父が仕事で遅くなったら一緒にいてくれたりしましたが、

暴言と暴力のイメージが強すぎて怖い、会いたくないという気持ちしかありません。

 

不登校になる

 

仲の良い友達ができましたが、転校生というだけで、いわゆる一軍の陽キャにターゲットにされてしまいました。

 

命令されたり脅されたり怖かったのを覚えています。

 

東日本大地震の時はまだ学校に通っていた記憶があるので、

学年が上がってすぐくらいから不登校になった気がします。

 

友人に誘われて5年生の時の宿泊学習には行きましたが、

それをきっかけにまた学校に通う、とはなりませんでした。

 

不登校ということはずっと家にいる、ということになるので

叔母が何かしてくるんじゃないかとビクビクしながら毎日生活していました。

 

私が5年生になってからいとこと叔母がアパートを借りて出て行ったのですが、

結構近いところだったし、祖父母の足が悪く、祖父は何回もてんかんを起こして病院に運ばれていたので毎日叔母は実家に来ていました。

 

叔母は理由も聞かずとにかく毎日学校へ行け、と言ってくる人でした。

逆に父は全く興味がなかったのか、理由も聞いてこないし何も言ってきませんでした。

 

不登校になって叔母にも結構学校へ行けと言われ、ストレスで一時期結構な頻度で過呼吸を起こして何度か病院に行った記憶があります。

 

結局5年生の1月あたりに叔母にしつこく言われ、保健室登校をすることになりました。

すぐに仲良かった友人が来てくれたりして嬉しかったのを覚えています。

 

祖父の介護を姉と2人でこなす

 

私が不登校になった同じ時期くらいに姉も転校生という理由でいじめられ、不登校になりました。

 

祖父が介護が必要でした。今までは叔母が1人で介護をしていましたが、

私たちが不登校になり、全部の介護を押し付けられました。

 

祖父は元大工さんで体格ががっちりしていて姉と2人で体の体制を変えるのがすごく大変だったし、年頃だったのにオムツ替えをさせられたり精神的に辛かったけど、

一番おじいちゃんが辛かったのかなと今振り返ると思います。

 

おじいちゃんには本当に申し訳ないことをしてしまったと思います。

 

父には叔母から私たちだけじゃなく、いとこたちにもやらせているから

みんなで介護をやっていると説明していたようです。

 

確かにそう言われたら日中介護をやってもらってる側からすると

疑ったり、何か言ったりできませんよね。

 

一時保護所に保護される

 

姉が母のところにいる時から児相と関わっていて、実父のところにくる時も

引き継ぎされていたので定期的に児相には通っていました。

 

父はお金の管理が全くできない人でいつもお金に困っていた記憶が強いです。

その上お風呂はないし家はすごく汚いし、とてもじゃないけどちゃんと生活ができていた、とは言えませんでした。

 

私たちがこの実家に来た時から手がつけられないくらい汚かったです。

 

何度もケースワーカーの方が家にきて、私たちが児相に行って話をして

一時保護所に行くことが決まりました。

 

保護所では綺麗な部屋に美味しいご飯が出てきて、ちゃんと勉強ができる環境があって誰も暴力を振るってこない、そんな環境で初めて安心して毎日生活を送れることができて姉もいて幸せだったなと思います。

 

最近虐待受けて亡くなってしまう子の報道が多いですが、

私たちは命に関わる緊急性の高い子どもではなかったのに保護されて、

私たち姉妹が保護されてしまったことによって

 

他の子が保護できなくなってしまった、とかあるのかなと最近強く思います。

緊急性が高くなかったのに保護されて申し訳ない気持ちが大きいです。

 

児童養護施設へ入る

 

保護所に入ると、ずっと居れるわけではないので、実家、親戚の家に帰るか、児童養護施設に入るか、里親さんの元へ行くかのどれかになります。

 

私たちは保護された当初、家に帰る方向で考えていこうね、という話でしたが、

父に改善が見られなかったため私たちは家に帰れないから児童養護施設に入ることが決まりました。

 

ただ、姉は過去にひどい虐待を受けてきてしっかりと心のケアが必要になるからケアをしっかり行っているところに入ることになりました。

 

私はその必要がないと判断され、普通の施設に入りましたが、姉から話を聞くと

いじめがあるし職員は全然寄り添ってくれなかったと言っていました。

 

私の入った施設の方がカウンセラーがいたりちゃんと向き合ってくれる職員がいたし、いじめもないしみんな仲良かったです。

 

私の方が2週間ほど早く施設に入ることになり、姉とまた別れなければなりませんでした。

 

当日は半日以上ずっと泣いていたのを覚えています。

 

私が実父の元へ行ったのは姉と一緒に暮らしたかったからなのに一緒に暮らすようになって一年半くらいしか一緒に居れませんでした。

 

本当にこの時は世の中の大人をめちゃくちゃ恨みました。

家に帰れるんじゃなかったの。施設はなんで一緒じゃダメなの。と誰も信用できなくなりました。

 

まとめ

 

今思うと実父のところに来る前までは身体的に辛かったのですが、

実父のところに来てからは精神的にしんどかったです。

 

暴言暴力、いじめ、介護、、

いろんなことが重なった時期でした。

 

しかも母と可愛い妹弟を置いて実父のところに来たのに

一年半でまた離れ離れになったのがしんどかったです。

 

世の大人が憎く、こんな世の中なんて無くなればいいのにとずっと

思っていました。

 

家族と幸せに暮らした記憶がないため、これから子育てが始まりますが、

子どもが幸せって思える家庭を築けるのかがすごく不安です。

 

自分がされてきた同じことを無意識にやってしまわないか、

やられたことが当たり前と思っていて娘に押し付けちゃわないか不安です。

 

旦那としっかり話し合いながら娘第一で子育て頑張っていきたいと思います。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

次回は施設に入ってからを書いていきたいと思います。

 

 

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